-2.03年→04年 年越し恒例 北海道縦断帰省 〜日本海郷愁編〜




日本海沿岸でなぜか花咲カニ(笑)




帯広を離れ、日本海沿岸の漁村にある父方の実家へ向かう。

駅まで送ってくれる祖父母の姿は、いつも胸に迫るものがある。

祖母は、ここ数年で驚くほどに老けた。

耳がほとんど聞こえないので、意志疎通がとても難しくなっている。

それなのに、見送ってくれる時の、本当に切ない別れ方は変わることがない。


私は見送られるとたんにいつも涙があふれてくる。

両親に見送られるときも、飛行機の中では大泣きしている。

このときも、汽車の中で懐かしい風景を眺めながら涙した。

汽車が見えなくなるまで手を振り続けているだろう祖母の姿が

目には写らなくなっても、わかりすぎるくらいに浮かぶからだ。


帯広にはあと何回来られるだろうか。

今回の帰郷は、そういうことを意識してならなかった。


 

 

帯広から南千歳まで向かう特急スーパーおおぞら。

この日は吹雪で景色もあまりみられなかった。




南千歳で両親の車に拾ってもらい合流。

めずらしく高速道路に乗ったものの、ごらんの通りの雪景色なので

制限速度50キロをきっちりキープせざるをえない。

全然下で行くのと変わらない、と高速道路嫌いの父は言う。




途中、立ち寄ったサービスエリアでお昼ご飯を。

長万部に近いゆえ、カニ飯があったので私はそれと豚汁を選択。

ごはんはぬるくてほぐしカニ肉は冷たい(笑)。これはひどいっ。あんまりだーー。

(*長万部のカニ飯は有名な駅弁で、私も大好きだ。おそばもおすすめ)

その代わりに眺めのよい休憩所であったのは救いかも。

 


年越しをする父方の実家は、日本海岸沿いの過疎が進んだ町の、さらに小さなその集落だ。

うちの祖父はもう90歳近いが、未だにドライバーである。すごい!

このなんにもない田舎だからこそだ。

以前テレビで「100歳のおじいちゃんドライバー」なんてテレビでやっていて

「おっかねーなぁ」と眺めていたが、我が家のじいちゃんも負けちゃいない(笑)。



10年以上前の大地震で奥尻島の対岸にあるこの集落が被害にあったときは生きた心地もしなかった。

何百年もの歴史のある家も倉庫も学校もすべて流され

仮設住宅を経て立て直した家に、始めは近代的すぎて馴染めなかった。

なにせ、その数年前までは台所に囲炉裏すらあったような家だったのだ。

その代わりにようやく水洗トイレを手に入れた、と明るく祖母は笑っていた。




上の写真の島は、昔は海岸から25メートルは沖にあった。

子供の頃は、浮き輪なしでこの島まで泳ぎ着くのが目標だった。

今では潮が遠くなり、泳がなくても濡れずに島の上に上ることができる。

たぶん遠くない将来、この過疎の集落には誰もいなくなる。

変わらないように見えるこの海ですら、少しずつ変化を見せている。

年をとるわけだ、私も…。




30日は親戚から送られてきた「花咲カニ」や「中トロ」を食べ、

31日には恒例のすきやきを食べ(もう何十年も飽きずにこれだ…すごいことだ)、

魚沼産のご飯を食べ、ビールを飲みまくる。

つやつやと舌すべりのいい適度な水加減。

あぁ、本当にご飯は美味しい。


年に1度だけ、パン食をストップさせるこの年末年始の数日間。

パン屋などないし、袋入り菓子パンすら賞味期限が何日も過ぎている(笑)。

不思議に恋しくはならない。

たぶん、「東京でのパン好きな私」は東京に置いてきてあるんだ。

ここにきたら、私は家族のいる一人の娘であり、孫娘なのだ。




普段東京で、毎日自分の好きなように暮らし、好きなものを食べ、好きなように遊んでいる。

そんなときは家族がいることの実感がわきにくい。

自分や周りのものが年を重ねているということも実感しにくい。

実感しないですむ、といった方が正しい。


生まれてから繰り返されてきたこの日本海の町での年越し。

子供の頃はひどく退屈でお年玉しか楽しみがなかった。

しかし今なら、この半ば強制的な帰省の大事さが身にしみてわかる。


確実に過ぎていく時間を、目を逸らさずに受け入れるべき、年に一回の儀式。

「永遠」じゃないけれど、繰り返される貴重な儀式。



こうして2004年もまた同じように始まるのだ。